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Update: 2015年2月17日
渡来人と高向玄理(古代の河内長野)
図書館文化遺産講座で「渡来人と高向玄理(古代の河内長野)」が、地域文化遺産啓発専門の尾谷先生によって行われました。始めに渡来人の波の話が行われました。古代の日本人が、難民の渡来人を受け入れていた事が解りました。第4波までの流れが聞けました。
『第1波は縄文時代晩期から弥生時代前期、第2波は古墳時代の4世紀~5世紀前後及び5世紀後半、第3波は7世紀(百済・高句麗の滅亡)、第4波は近代の20世紀前半です。』
今回はその中で第2波の時代を中心に話されました。4世紀から6世紀に掛けて朝鮮半島での三国の争いが中心です。その結果古墳時代の文化が前期と後期に、大きな違いが出て来ています。
前期の古墳では、竪穴式の石室が在り、長い割り竹形の木棺に、只一人だけが埋葬されていました。古墳時代中期から後期には横穴式の石室が造られてます。
古墳の副葬品も変わって来て、鉄製品が多くなっていきます。中には金メッキした金・銅製品や馬具・葺きなども埋葬されていました。日本では馬と言う物が、古墳時代に朝鮮半島から入ってきました。
4世紀から7世紀に至る三国(百済・新羅・高句麗)に中国の隋や唐が加わり、争いが起きて、騒乱の時代となりました。
608年に第三回目の遣隋使として、高向玄理の他8名の留学生、留学僧等が送られました。その後640年高向玄理が在唐32年を終えて帰国しました。乙巳の変では、留学生活した人たちが帰国して、政治に参画する様になり、玄理は国博士となりました。
纏めとして、古墳時代渡来人が関西に移動して来て、大化の改新以降には、錦部郡には百済郷、餘部郷と言う地名が残されています。錦部氏も高向氏も文官系として、記録・文筆の官史として登用されてます。昨年中国の西安市の大興禅寺の境内に、高向玄理公の顕彰碑を建てて来ました。その後、昨年末には河内長野市のくろまろの郷にも顕彰碑を建てられてます。
Written by マロンさん
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