高槻の寒天づくり
高槻の寒天づくりは、1787年ごろ、美濃国加納藩主永井家の領主:宮田半平が、伏見の美濃屋利兵衛から学んだ製法を、郷里の高槻城山に持ち帰り改良して、「細寒天」の製造法を確立・産業化したことに始まったとされています。
高槻の山間部は、①製造に適した冬の寒さ ②天草を煮溶かすのに必要な薪や炭が豊富 ③淀川の河港と山道で結ばれ、原料の入手や製品の出荷のために水運が利用できた、などの好条件が重なり、寒天づくりが大変盛んな土地になりました。それ以来、地域に根ざし、上質の細寒天で海外にまで知られた、文化的・産業的価値の高い「寒天の郷」です。