現在の検索条件
-
大槻能楽堂
大阪城からほど近いところにある、戦前からつづく「大槻能楽堂」。1935年、当時一般的だった桟敷席をいす席にした異色の能楽堂として誕生しました。戦禍を免れた関西で数少ない能楽堂でもあり、戦後も能楽公演を継続してきました。大阪城のもっとも大きい石垣の実物大の写しを、橋掛の背景にしたり、能楽の音楽的特質を考慮して残響時間を約1秒に設定するなどの特徴をもちます。定席502(補助席70)席。能楽は室町時代に大成・現存する世界最古の舞台芸術と謳われ、ユネスコ世界無形遺産にも宣言される日本古来の伝統芸能ですが、大槻能楽堂では、古典のものとともに、新作能も上演して後世代にも能の魅力を広めています。
-
神農祭(少彦名神社)(しんのうさい)
文政5年、コレラが大流行した際、道修町で薬種問屋が丸薬をつくり、張子(ハリコ)の虎を神前に供え、疫病祈願をこめたことが始まりといわれています。例祭には厄除けの笹につけた張子(ハリコ)の虎が授与されます。道修町通り堺筋から御堂筋まで車輌通行止にして、露天が並ぶのが楽しみのひとつです。平成19年4月には、大阪市無形文化財(民俗行事)に指定されました。
-
彦八まつり(生國魂神社)
上方落語の始祖・初代米澤彦八(よねざわひこはち)は元禄から正徳の江戸中期にかけ、生國魂神社の境内で「軽口囃子」や「しかた物真似(役者の身振りや声音を真似る芝居囃のルーツ)」を演じていました。彦八師の世評はすこぶる高く、上方落語の三要素「素囃」・「芝居囃」・「音曲囃」の原型を確立させた他、落語のネタを囃本としても残しました。明治中頃までは現代にいうような落語家や噺家の名称は無く、落語家は総じて「彦八」と呼ばれていました。彦八まつりは、大看板から若手までの上方落語家が一同に会し、「扇納祭」・「種々の芸能の奉納」・「落語家おもしろ屋台」の企画をメインに、様々な一般参加の企画を取り入れ、落語ファンはもとより一般府民の方々とも直に交流を深めるとともに、上方落語の素晴らしさを広くPRし、さらなる発展と芸の継承をすることを目的としています。2日間で約16万人の人出があります。
-
露天神社(通称:お初天神)(つゆのてんじんじゃ)
正式名称は「露天神社」、約1200年前大阪がまだ浅瀬であった頃、曽根洲という小島に創建されたといわれています。後に曽根崎村の氏神となり、現在でも梅田・曽根崎地域の鎮守として崇敬されています。江戸期の元禄時代には、近松門左衛門の「曾根崎心中」で舞台となり、以来その主人公「お初・徳兵衛」の名前より 「お初天神」と通称され親しまれ続けています。近年、境内に二人のブロンズ像が建立され、縁結びのご利益を得ようと若いカップルの参詣も多く見かけます。
いわゆるキタのど真ん中に位置しているため、周辺は高層オフィスビルと賑やかな商店街に囲まれていますが、境内に一歩入ると独特のあたたかな雰囲気に包ま れ、いわば「都会のオアシス」と呼んでも良い場所であり、まさしく大阪を代表する顔の一つです。 -
淀川
特に淀川からの夕日が美しいです。
-
海老江八坂神社
境内に関西の俳壇で活躍した松瀬青々の句碑があります。
-
日本綿業倶楽部(綿業会館)
1931年12月に日本綿業倶楽部の施設として竣工しました。ルネサンス風の歴史的建造物であり、2003年12月に国の重要文化財に指定されています。この建築はデザイン面の素晴らしさだけでなく、設備の面でも先駆的な試みがなされており、日本の近代美術建築の傑作と言われ、高く評価されています。
※なお、綿業会館は会員制となっていますので、会館内への立ち入りはご遠慮ください。 -
難波八阪神社
この神社は、子どもたちの獅子舞が盛んで、地域に親しまれ、雅楽演奏や落語会などの催しも開かれています。七五三の時には晴れ着を着た親子で賑わっています。境内のインパクトがあり、ユーモラスな獅子舞台があります。
-
難波神社 氷室祭(なんばじんじゃ ひむろまつり)
難波神社の主祭神は仁徳天皇です。昔、天皇のお兄さんが夏に狩りをされた際に氷室を発見し、天皇に献上されました。天皇は大変喜ばれ、それ以降、国の制度として都の近辺にいくつもの氷室を作り、夏に氷が利用されるようになったといわれています。その言い伝えに因み、毎年7月に御祭神に氷を献じる祭り(氷室祭)が行われています。
-
極楽寺 楠木正成公お手植の楠
地区で有名な巨木。夏は涼やかさを提供して、冬は暖かみの溢れるスポットです。地元の憩いの地です。平成5年に大掛かりな治療を受けた枝がすくすくと伸び、大枝となり、以前よりも緑豊かになりました。