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緑の一里塚(みどりのいちりづか)
わが国最古の官道と呼ばれる竹内街道は、飛鳥時代には大陸文化がこの街道を経て大和飛鳥の都に伝えられました。また、中世から近世にかけては経済や信仰の道として、沿道に残る道標や灯籠などによりかつてのにぎわいが偲ばれます。
緑の一里塚とは、古の旅人がかつて一里塚を目印に、街道を一歩一歩踏みしめるように進んでいた原風景を現代によみがえらせ、みどりを通じて街道の持つ魅力を高めています。
施設は、見学自由です。竹内街道の散策やウォーキングの際の休憩などにご利用ください。なお、施設は竹内街道にぎわいづくり協議会及び地域町会により維持管理されています。 -
赤井神社跡遺跡(あかいじんじゃあといせき)
昔、泉南市の市場地区には、七堂伽藍の威容を誇る巨大な寺院(仏生寺)があったといわれ、近隣の発掘調査では中世の屋瓦なども出土しています。その寺院内にあったといわれる赤井神社の遺跡は、それを示す痕跡のひとつと考えられるものです。
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市場区地蔵堂(いちばくじぞうどう)
1655年、仏生寺の境内の地蔵堂に安置された地蔵尊は、往時より霊験あらたかな安産の御仏子安地蔵尊としてお祀りされていました。
現在の小さな地蔵堂には、観世音菩薩像をはじめ5体の貴重な仏像が祀られています。 -
信達宿の常夜灯(しんだちしゅくのじょうやとう)
紀州街道の宿場町であった地区の中心に立っている三基の常夜灯。
常夜灯に刻まれている年号を見ると、文政のお蔭参り(伊勢神宮への参拝)に際して、伊勢神宮への深い信仰とその道中の安全を祈願するために建立したことがうかがえます。
時代とともに外灯が整備され、平成4年に地域が輪番で常夜灯に蝋燭を灯す「お光を上げる」習慣は終わり、電気による自動点灯式になりましたが、現在でも常夜灯としての役割を果たしています。 -
ローズフェスティバル
世界中で最大かつ最新のイングリッシュローズのコレクションを持つ、デビッド・オースチン・ロージズ社のローズガーデンの「ローズフェスティバル」は、約3,000株のバラが最高の色と香りを放つ、ピークに達する時期に開催されます。
期間中には、専門家によるガーデンツアー、バラの選定方法、育成・手入れ方法についての講演、バラの鉢苗コレクションなどが催されます。 -
イングリッシュローズガーデン
泉南市に開設された「イングリッシュローズガーデン」は、本国英国以外では唯一のデビッド・オースチン・ロージズ社の公式ガーデンです。関西空港や市街地からアクセスしやすい、美しい眺めのある、なだらかな丘の上にあり、庭内には英国のガーデンをもとにデザインされた庭の中央を水路が流れ、イングリッシュローズのつるバラをあしらったローズアーチやオベリスクが配置されています。
7500平方メートルの広がりをみせるガーデンに、常時、200種、約3000株のバラが一般公開されています。 -
Carrel(キャレル)
駅直結で夜9時まで開館しており、気軽に立ち寄れる利便性の良い施設です。
愛称は「Carrel(キャレル)」。公募により決定したこの愛称には「個人用閲覧席」という意味があり、愛称のとおり窓側に駅ロータリーが見渡せる閲覧席もあります。 -
竹内街道の歴史的なまちなみ「逢坂橋~月読橋」
古くは推古天皇の時代より続く、日本最古の官道である竹内街道の「逢坂橋から月読橋」区間は、今なお古民家が建ち並ぶ歴史的なまちなみを残し、道中にある杜本神社が来訪者を迎えます。また、緑豊かな二上山系の山々を背景に青々とした飛鳥川がゆるやかに流れて、川沿いの月読み橋付近には歌碑や石燈篭も立てられています。
平成29年に府内では初めて日本遺産に認定された竹内街道の歴史的なまちなみと豊かな自然も一緒にご堪能ください。 -
豊泉家千里体育館(ほうせんかせんりたいいくかん)
当施設は平成4年度に大阪まちなみ賞を受賞しました。
千里中央公園南側、中央環状線に面する小高い丘の上に位置しています。築20年以上を経過し、うっそうとした公園の樹木が建物の壁面に映りこむ姿は、線をより一層際立たせ、周囲の環境に溶け込んでいるかのように思えます。中央環状線から見える遠景スカイラインも周辺環境になじんで美しいです。建物前には彫刻家、新宮晋さん作の「森のささやき」も見ることができます。 -
旧新田小学校校舎(きゅうしんでんしょうがっこうこうしゃ)
当校舎は、棟礼や記録によれば、明治33年(1900年)に竣工したもので、建築当時の図面によると、建物は桁行14間半、梁行5間で南面し、中央1間半に玄関、応接室、教員室があり、東西両翼にはそれぞれ桁行5間の2教室があり、その前面に土間廊下が配されています。建物の東端は用務員室・物入となり、渡り廊下によって別棟の便所とつながっています。西端には、教員住宅が設けられています。大正12年(1923年)に教員住宅がとり払われ、桁行5間の教室が新たに設けられました。その後、教員室も背面に拡げられるなど変遷をたどり現在の形となりました。
昭和48年(1973年)に、再度新築移転し、旧校舎は保存されることとなりました。近年当校舎のような和風色の強い校舎が数少なくなっており、教育資料として貴重なものとなっています。