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四條畷市立野外活動センター(しじょうなわてしりつやがいかつどうせんたー)
バーベキューや石窯ピザづくりなど、体験型アクティビティが楽しめる。また、キャンプファイヤー(要予約)や、「星のソムリエ」の案内で、天体観測ができるイベント等を実施。
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和田山 Berry Park(わだやまべりーぱーく)
■ブルーベリー狩りは、熊取で!
NPO法人グリーンパーク熊取は、熊取町の支援を受け、令和元年(2019年)にブルーベリー農園 『和田山 Berry Park』をオープンしました。
ここで収獲されたブルーベリーは、令和3年(2021年)に熊取ブランド『くまとりやもん⤴』に認定されました。
当園では、十数品種のラビットアイ系を栽培しています。
ラビットアイとは、果実が成熟する前にウサギの目のようにきれいなピンクから赤になることから名づけられました。
樹高は大きくなるものも多く、3~4mに達します。
※当園では、1.5mほどに剪定しています。
新枝や葉は、3月から成長し、4月下旬~5月中旬に白からピンクの小花が房状に垂れ下がって開花します。
7月~8月には成熟し、果実を実らせ、直径は1~2㎝、果重は1~2gです。
大きさやブルーム(果粉)の量、味は品種によって様々です。
秋には、真っ赤に紅葉します。
樹勢は旺盛で成長が早く、反面、耐寒性が低く、寒冷地には適していません。
日本では、1962年頃から栽培されるようになり、現在では多くの品種(数十種)が栽培されています。
☆入園料金
大人(中学生以上)1,500円
※食べ放題+おみやげ用パック1つ
子ども(3歳以上~小学生)700円
※食べ放題のみ(3歳未満は、無料)
◇追加のお持ち帰りは、「持ち帰り用パック」
(別途販売/250g用900円)をご利用ください。 -
高津宮(高津神社)(こうづぐう こうづじんじゃ)
高津宮(こうづぐう)の創始は平安期の貞観8(866)年。大阪隆盛の礎を築いたとされる第16代仁徳天皇が定めた都。高津宮(たかつのみや)跡に社殿を築き、同天皇を主神として祭った。現在の地には1583年豊臣秀吉が大坂城を築く際に遷座された。同社は古典落語の「高津の富」「崇徳院」の舞台として知られ、また文楽・歌舞伎の「夏祭浪花鑑」の一節に登場し上方の伝統芸能に縁が深い神社です。その他展望の名所、高津の湯どうふなど文化・娯楽と幅広く賑っていました。第2次世界大戦で神輿庫だけが戦災をまぬがれ、江戸時代の大神輿2基が受け継がれています。現在の本殿は昭和36年に再興され、神社境内の南北は大阪市の公園として整備され、公園と一体化し早春の梅花、春爛漫の桜並木、大樹が茂り小鳥のさえずりが響く、都会にあって自然豊かな鎮守の森です。
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大阪観光トイレ kawamo(おおさかかんこうといれ かわも)
“堂島川のほとりにある、「川面」のような外観をもつ観光トイレ”という意味をこめて、「kawamo(カワモ)」と名付けられたこのトイレは、デザインに工夫を凝らすとともに、観光客の利便性にも配慮し、誰もが快適に利用できる、大阪の観光魅力の一つとなりうるトイレとなっています。
川面のゆらめきを彷彿させる外壁や、かつて堂島川沿いに数多く並んでいた米蔵をイメージした勾配屋根など、 「水都大阪」をイメージした特徴的な外観デザインと、国産木材を使用した、木の香りやぬくもりを感じることができる内装デザインが特徴となっています。 -
日本遺産「龍田古道・亀の瀬」
令和2年6月、柏原市と奈良県三郷町が文化庁に申請した「もう、すべらせない‼~龍田古道の心臓部「亀の瀬」を越えてゆけ~」のストーリーが、日本遺産に設定されました。
大和川に沿った、河内と大和を結ぶ道は、「龍田道」と呼ばれました。「龍田道」は、時代や目的によって数本の道に分かれており、それらを総称して「龍田古道」と呼んでいます。古くから利用され、聖徳太子が整備し、奈良時代には平城宮から難波宮への行幸路として天皇や貴族が行き交いました。
また、大阪と奈良の府県境の亀の瀬は、古くから地すべりを繰り返しており、昭和6,7年の地すべりでは、現在の大和路線の線路やトンネルを押しつぶし、大和川の対岸へと付け替えられて現在に至っています。そのトンネルの一部がそのまま残っていたことが地すべり工事中に発見されました。 -
田原礼幡キリシタン墓碑(たわられいまんきりしたんぼひ)
田原城主の菩提寺である千光寺跡から出土したキリシタン墓碑です。
戦国時代末期の永禄3年(1560)に飯盛城へ入城した三好長慶は、キリスト教の布教を許可してキリシタンの保護を命じます。永禄7年(1564)には、飯盛城で2度にわたり、三箇城主三箇サンチョ(大東市)、池田教正シメアン(後の若江・八尾城主)など70余名の家臣が洗礼を受けました。これを契機として「河内キリシタン」が繁栄していきます。
この墓碑には、十字架の下に『天正九年 辛巳 礼幡 八月七日』と刻まれています。「礼幡」は洗礼名で、「レイマン」と読みます。天正2年(1574)のルイス・フロイスの書簡に「田原の城主がキリシタンに改宗したこと」、天正3年(1575)のルイス・フロイスの書簡に「三箇マンショや結城ジョアンといった河内のキリシタンとともに田原レイマンが織田信長に拝謁した」ことが記されており、その人物が田原城主である「田原礼幡(レイマン)」です。国内で確認されている190数例のキリシタン墓碑のうち最古のもので、文献史料と発掘資料が一致する大変貴重なものです。
墓碑は四條畷市歴史民俗資料館(http://www.shijonawate-rekishi.jp/)で常設展示しています。 -
田原城跡(たわらじょうあと)
生駒山地から東に延びる丘陵の先端部に位置し、天然の堀と考えらる北谷川と天野川に囲まれており、北側には古堤街道が通じています。城跡には、本丸、二の丸と呼ばれる曲輪や堀切などが残っています。城主は、鎌倉時代頃からこの地域を治めていた田原氏で、その菩提寺である千光寺跡には、田原対馬守の墓と伝わる五輪塔が現存しています。
田原氏は、戦国時代末期に三好長慶の被官となり、この城は、大和方面の守りの要である支城として機能しました。
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飯盛城跡(いいもりじょうあと)
大阪府と奈良県の境界を南北に連なる生駒山地の北支脈である標高約314mの飯盛山の山頂一帯に立地し、城域は南北約700m、東西約400mに及ぶ、西日本有数の規模を誇る山城です。戦国時代末期の永禄3年(1560)に三好長慶が入城したあとは、当時の日本の中心であった京都や五畿内を支配する拠点として機能し、連歌や茶の湯などの最先端の文化交流の場ともなりました。また当時、城を訪れたイエズス会宣教師を通じてヨーロッパで刊行された文献や地図でも紹介されています。城跡には多数の曲輪や石垣、土塁、竪堀、畝状空堀群などの遺構が良好な状態で残っています。また発掘調査により、「織豊系城郭」に共通する3つの要素とされる石垣、礎石建物、瓦を先行して取り入れられたことが判明した、城郭史上貴重な城跡です。平成29年4月「続日本100名城」に、令和3年10月に国の史跡に指定されました。
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大阪市立阿倍野防災センター 体験型防災学習施設「あべのタスカル」(おおさかしりつあべのぼうさいせんたー たいけんがたぼうさいがくしゅうしせつ あべのたすかる)
阿倍野防災センターは平成16年に開館し、現在では南海・東南海地震や南海トラフ巨大地震などの大災害に備えるため、自分の住む地域の特性に応じた災害危険を認識することで、自分に必要な知識や技術を選択し、体験を通じて学ぶことができる、体験型防災学習施設となっています。平成31年には東日本大震災をはじめ近年発生した災害の教訓を取り入れた学習施設「あべのタスカル」へとリニューアルしました。
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鉢伏山西峰古墳(はちぶせやまにしみねこふん)
鉢伏山西峰古墳(はちぶせやまにしみねこふん)は、鉢伏山から西に伸びる尾根上に築かれています。この尾根の標高は約135メートルで、西方には大阪平野を見渡すことができ、5世紀の大王墓群である古市古墳群のビューポイントにもなっています。
この古墳は平成5年(1993年)に発掘調査が実施され、一辺約12メートルの方形の墳丘であることがわかりました。埋葬施設は、飛鳥時代に特有の「横口式石槨(よこぐちしきせっかく)」と呼ばれるものです。棺を納める「石槨部」の前に「前室」を設け、そこに至る「羨道(せんどう)」が付設されています。早くから開口していたので、棺や副葬品は残っていませんでした。
鉢伏山西峰古墳の横口式石槨の石槨部は、この古墳が立地する地形の岩盤の露頭を刳り貫いて非常に精巧に造られています。「漆喰(しっくい)」と言われる白色の上塗り材が石槨部の壁面の一部に残存していました。また、前室の床には白色の凝灰岩の切石が敷かれていました。出土した土器などから、7世紀半ばに築造されたものと考えられます。7世紀代を中心とする飛鳥時代に築かれた古墳は、一般的に「終末期古墳」とも呼ばれています。
横口式石槨をもつ終末期古墳は、全国でも数が少なく、特に「河内飛鳥」や「大和飛鳥」に集中して見られます。とりわけ、鉢伏山西峰古墳は、発掘調査によってその全貌が明らかになった事例として大変貴重なものです。現在、この古墳は整備されており見学することができます。